Se connecter幾重もの牙が、頭上の闇を塞いだ。
避ける時間はない。
リュゼルは小刀を捨て、右腕を掲げた。
意識の奥に沈む石板へ触れる。
竜哭王ヴァルディオス。
その名を呼んだ途端、焼けた右腕の墓碑紋から黒金の炎が噴き上がった。
身体のすべてを渡してはならない。
黒い城を守った巨大な骨格も、空を覆った翼も必要ない。欲しいのは、迫る牙を一度だけ防ぐための硬さ。
「右腕だけだ」
自分へ言い聞かせるように叫ぶ。
「ここから先へは、入ってくるな!」
指先から肘、肩の寸前まで、黒い鱗が次々と皮膚を覆った。
墓守蜈蚣の牙が腕へ激突する。
発現した《黒竜鱗》と白い牙の間から火花が散った。衝撃が肩を抜け、胸の奥まで突き抜ける。継ぎ合わせられた骨が悲鳴を上げ、リュゼルの両脚が石床へ沈んだ。
「ぐ、ぅ……っ!」
墓守蜈蚣の重みが右腕へ圧し掛かる。
肘が折れそうに曲がった。
それでも鱗は砕けない。
ヴァルディオスの怒りが、右腕から流れ込んできた。敵を焼き尽くせと黒い炎が心臓を叩く。竜へ変われ。翼を広げろ。爪で引き裂けと、死者の記憶が全身を求める。
「俺は……俺のままで、使う」
リュゼルは奥歯を噛み締めた。
炎も翼も呼ばない。
右腕を覆う鱗だけを意識し、それ以外の記憶へ境を引く。
黒い鱗の広がりが肩で止まった。
墓守蜈蚣の牙が横へ滑る。
リュゼルは押し潰される寸前に身を捻り、巨体の下から転がり出た。牙が床を抉り、黒い石片が雨のように降る。
「あなた……」
祭壇から、少女の掠れた声が届いた。
紫紺の瞳が僅かに見開かれている。
「一度言われただけで、力の範囲を抑えたの?」
「できるとは、思わなかった」
「それで実行する人間がどこにいるのよ」
「ここにいたらしい」
言葉を返しながら、右腕を振る。
骨は折れていない。だが肩の関節がずれ、腕全体が痺れていた。黒竜鱗を留めているだけでも墓碑紋が焼け、体温を奪われていく。
長くは保たない。
墓守蜈蚣が頭を持ち上げた。
牙の先には、鱗で削られた浅い傷が一本ついている。致命傷には程遠い。むしろ痛みで怒らせただけだった。
巨体が身震いし、何十本もの節足が一斉に床を叩いた。
リュゼルは落とした小刀を拾い、墓守蜈蚣の横を駆け抜けた。
右脚へ《瞬脚》を一瞬だけ通す。
銀灰色の光が弾け、毒液が背後へ落ちた。
すれ違いざま、胴を覆う骨の外殻へ小刀を突き立てる。
甲高い音が鳴った。
刃先が欠け、手首へ痺れが走る。外殻には白い筋すら残っていない。
「小刀では傷つきません!」
少女が叫ぶ。
「今、分かった」
「試す前に分かりなさい!」
墓守蜈蚣の尾が横薙ぎに迫る。
リュゼルは折れた列柱の陰へ飛び込んだ。黒い棘が柱の表面を削り、頭上から岩片が崩れ落ちる。
正面から倒すことはできない。
黒竜の炎を使えば、外殻ごと焼けるかもしれない。だが今の身体で呼び出せば、魔物が死ぬより先に自分の内臓が焼ける。
《瞬脚》も続けて使えない。
小刀は役に立たない。
リュゼルは息を整えながら、神殿全体へ視線を走らせた。
勇者一行にいた頃、彼が戦いへ加わることは許されなかった。
だが、見ていなかったわけではない。
魔物がどちらの脚から踏み込むか。
地形のどこに逃げ道があるか。
崩れやすい岩と、荷重に耐える柱の違い。
誰もが剣と魔法だけを見ていた間、リュゼルは戦場のすべてを覚えていた。
神殿の天井から垂れる黒鎖のうち、三本が大きく揺れている。
墓守蜈蚣が岩扉を破った時の振動で、鎖を支える天井の金具が緩んだらしい。一本は折れかけた列柱へ絡み、もう一本は祭壇の外周へ弧を描いて垂れている。
列柱の根元にも、尾を打ちつけられた亀裂が走っていた。
魔物を殺す必要はない。
ここから動けなくできればいい。
リュゼルは祭壇の少女を見た。
少女も、彼の視線を追って天井の鎖を見上げる。
二人の目が合った。
「あの鎖を動かせるか」
「私を拘束するもの以外なら、僅かに」
「十分だ」
「何をするつもり?」
墓守蜈蚣が柱の陰へ顎を突き入れた。
リュゼルは横へ転がり、牙を避ける。柱が揺れ、根元の亀裂がさらに広がった。
「あいつを祭壇の右へ誘う」
「それだけでは分かりません」
「垂れている二本を、俺が柱を蹴った時に引いてくれ」
少女の視線が、鎖、列柱、墓守蜈蚣の長い胴を順に辿る。
僅かな間のあと、その顎が引かれた。
「三息しか動かせません」
「一息あればいい」
「失敗すれば?」
「今度こそ食われる」
「平然と言わないで」
叱責とは裏腹に、少女の声はもう迷っていなかった。
リュゼルは列柱の陰から飛び出した。
墓守蜈蚣の白い目が彼を追う。
大顎が開き、濁った毒液が喉の奥へ集まった。
「右へ!」
少女が叫ぶより早く、リュゼルは右脚へ力を通した。
《瞬脚》。
ほんの一歩だけ。
身体が銀灰色の残光を引き、毒液の軌道から外れる。白煙を上げる液体が床へ広がり、靴底の端を溶かした。
墓守蜈蚣が方向を変える。
長い胴が祭壇の周囲を半周し、黒鎖の真下へ入り込んだ。
リュゼルは速度を落とした。
追いつかせない程度に走り、しかし魔物が別の獲物へ興味を移さない距離を保つ。
祭壇の外側で、月角兎の幼体たちが隠れている。
一匹の鳴き声でも聞かれれば、墓守蜈蚣はそちらへ向かうかもしれない。
「こっちだ!」
欠けた小刀を、外殻の傷へ投げつけた。
刃は弾かれたが、怒りを向けさせるには十分だった。
墓守蜈蚣が咆哮し、前方の節足で床を蹴る。
リュゼルは折れかけた列柱へ向かって走った。
「まだ!」
少女の両手が、枷の中で持ち上がる。
白い指先から黒紫色の魔力が伸び、天井から垂れた鎖へ絡みついた。少女の翼が震え、付け根の鉤爪から血が滲む。
黒鎖が軋んだ。
墓守蜈蚣の頭部が、リュゼルの背中へ迫る。
あと五歩。
四歩。
三歩。
牙が外套の裾を噛み千切った。
「今だ!」
リュゼルは右脚へ残っている力をすべて集めた。
月角兎の恐怖が、子どもたちへ戻ろうとした最後の焦りが、胸を締めつける。
「借りる。けれど、行き先は俺が決める」
銀灰色の光とともに、亀裂の入った列柱を蹴った。
足裏から骨の砕けるような痛みが突き抜ける。
列柱が大きく傾いた。
同時に、少女が両手を引く。
「落ちなさい!」
黒紫色の魔力が弾けた。
天井の金具が外れ、二本の黒鎖が凄まじい勢いで落下する。傾いた列柱が墓守蜈蚣の胴へ倒れ込み、その巨体を床へ叩きつけた。
続いて鎖が何重にも胴へ巻きつく。
墓守蜈蚣が暴れ、列柱を持ち上げようと身を捩る。黒い節足が床へ溝を刻み、顎から毒液を撒き散らした。
少女が最後の力で鎖を引く。
先端の金具が床の亀裂へ食い込み、墓守蜈蚣の胴を黒い石へ縫い止めた。
完全には倒せていない。
外殻にも致命的な傷はない。
それでも長い胴は列柱と鎖に拘束され、頭部を僅かに持ち上げることしかできなかった。
墓守蜈蚣の顎が何度も床を噛み、石片と毒液を撒き散らす。巻きついた鎖が引き絞られるたび、骨の外殻に白い亀裂が増えた。それでも魔物は死なず、黒い節足を狂ったように動かしている。一本でも鎖が外れれば、再び立ち上がるだろう。
リュゼルは荒い呼吸の合間に、祭壇の窪みへ視線を向けた。革布の端から小さな耳が三つ覗き、すぐに引っ込む。鳴き声はない。怯えながらも、ここから出るなという言葉を守っている。その姿を確かめて初めて、詰めていた息を吐いた。
「できた……」
リュゼルは列柱の残骸へ片手をついた。
右脚から力が抜け、膝が震えている。《瞬脚》を使った筋肉は熱を持ち、皮膚の下で新たな出血が広がっていた。
右腕の黒竜鱗も、火の粉となって墓碑紋へ戻っていく。
「驚いたわ」
少女の声が聞こえた。
振り向くと、彼女は祭壇の上で荒い息をついていた。
「人間は、もっと言葉を重ねなければ互いの意図を理解できない生き物だと思っていた」
「俺も、あんたが話を聞くとは思わなかった」
「聞いたのではありません。最も生存率が高い手段を選んだだけです」
「それを、話を聞いたと言うんだ」
少女が何かを返そうと唇を開いた。
その時だった。
高く細い音が、神殿へ響いた。
硝子へ亀裂が入るような音。
少女の左手首を拘束する黒鎖に、白い筋が走っている。
墓守蜈蚣を縛るため神殿の鎖を動かした反動が、彼女自身の拘束へ伝わったのだ。
「動くな!」
少女が自分へ命じるように叫んだ。
だが亀裂は止まらない。
黒鎖の表面を這い、枷の内側まで達する。
亀裂から、黒い霧が漏れ出した。
霧は生き物のように少女の手首へまとわりつき、白い肌の下へ染み込んでいく。細い血管が黒く浮かび、その色が腕から肩へ広がった。
少女の身体が硬直する。
翼が大きく震え、鎖が一斉に鳴った。
「何が起きている」
「来ないで」
声は冷静だった。
しかし枷へ添えられた指先が、隠しようもなく震えている。
「拘束が緩んだのではないのか」
「これは封印であると同時に、呪いを留める器です。壊れ方を誤れば、中身が私へ戻る」
少女は背筋を伸ばしたまま、紫紺の瞳を細めた。
苦痛に耐えていることを悟らせまいとしている。
けれど呼吸は短く途切れ、白い歯が唇の内側を噛んでいた。
やがて口元から、赤い血が一筋落ちる。
黒いドレスへ新たな染みをつくった。
リュゼルは祭壇へ向かった。
「来るな。あなたまで呪いを受ける」
「そのままなら、あんたが死ぬ」
「私は死なない」
少女の唇が、歪な笑みをつくった。
「死ぬことすら許されていない」
黒い霧が首元まで上り、黒環の下にある痣へ吸い込まれていく。
祭壇を囲んでいた結界は、鎖の亀裂に合わせて明滅していた。完全に消えたわけではない。近づくたびに肌が焼け、胸の奥から命を引き抜かれる感覚が強くなる。
リュゼルは黒竜鱗を右手だけへ戻した。
ヴァルディオスの怒りが蘇る。
少女へ届かなかった爪。
閉じる門。
炎の向こうへ消えた銀髪。
「これは、あんたの願いでもあるんだろう」
墓碑紋へ言い聞かせる。
「でも、助け方は俺に選ばせてくれ」
右腕を結界へ差し入れた。
黒竜鱗の表面が焼け、黒い煙が上がる。鱗の隙間から皮膚へ呪いが刺さり、全身の血が逆流するような痛みが走った。
それでも足を止めない。
祭壇まで、あと数歩。
「どうして……」
少女の声が掠れた。
「どうして、人間がそこまでするの」
「人間だから助けるんじゃない」
リュゼルは息を吐きながら答えた。
「あんたが、俺を助けたからだ」
少女は目を伏せた。
長い銀髪が頬へ落ち、その表情を隠す。
「……名も知らない者に、最期を見られるのは嫌ね」
小さな呟きだった。
リュゼルは足を止めかけた。
少女がゆっくり顔を上げる。
紫紺の瞳には苦痛が滲んでいた。それでも、王座へ座る者の誇りだけは失われていない。
「ネフィリア」
鎖の音の中で、その名だけが鮮明に届いた。
「ネフィリア・エル=ヴァルグレイ。深淵王家最後の王女」
真名を告げた瞬間、神殿の黒い水面へ紫紺の波紋が広がった。
列柱に刻まれた古い紋章が、一つずつ淡く光る。地下神殿そのものが、失われた主の名へ応えているようだった。
ネフィリアの背後にある崩れた王像から、黒い砂が落ちた。伏せられていた石像の顔が僅かに持ち上がり、閉じた瞼の間へ紫の光が宿る。だがその光も長くは続かず、鎖から漏れる霧に触れた途端、再び沈黙した。
「魔族の王族が人間へ真名を明かすことは、心臓の在処を教えるに等しい。名を用いれば、契約にも呪詛にも私を縛れる」
「なら、なぜ教えた」
「名も知らない者に看取られるのだけは嫌だった」
ネフィリアは唇の血を拭おうとした。
だが手首の鎖が鳴り、指先は口元まで届かなかった。
その短い距離が、リュゼルにはひどく遠く見えた。
彼はネフィリアの前へ膝をついた。
鎖から漏れる黒い霧が、頬を撫でる。冷たいのに、皮膚の内側では火傷のような痛みが広がった。
ネフィリアが、紫紺の瞳を細める。
「私に従うつもり?」
「違う」
リュゼルは片膝をついたまま、焼けた右手を持ち上げた。
「手を届かせるために屈んだだけだ」
祭壇の上で拘束された彼女と、同じ高さになる。
見上げるのでも、見下ろすのでもなく、正面から紫紺の瞳を見つめた。
「俺は誰かの前で跪くのはやめる」
勇者の外套を追い、命令を待ち、役に立つことで居場所を許されようとした日々。
そのすべてを、奈落へ落ちる途中で失った。
もう、誰かに選ばれるために自分を差し出すつもりはない。
「だから、あんたも跪かなくていい」
ネフィリアが息を呑んだ。
冷たく澄んだ紫紺の瞳が、初めて行き場を失うように揺れる。
リュゼルは右手を伸ばした。
黒竜鱗に覆われた指先が、亀裂の入った黒鎖へ触れる。
轟音とともに、呪いが弾けた。
黒い光がリュゼルの腕を駆け上がり、紫紺の光がネフィリアの鎖から溢れ出す。
二つの力は互いを拒むように激しく衝突し、次の瞬間、絡み合った。
黒銀色の墓碑紋と、ネフィリアの胸元に浮かぶ王家の紋章が同時に燃え上がる。
二人の間を、逃げ道のない呪いが走った。
骨の谷を進むほど、イセラの足取りは遅くなっていった。道に迷っているわけではない。むしろ、忘れたはずの景色が一つずつ戻ってきているようだった。白く乾いた骨の斜面を越え、岩壁が細く裂けた場所へ入るたび、彼女の黒豹の耳が小さく動く。鼻先が風を拾い、琥珀色の瞳が足元の石や壁の傷を確かめる。そのたびに立ち止まり、しばらく何も言わず、また歩き出す。リュゼルは少し後ろを歩いていた。先頭を譲ったのは、道を知っているからだけではない。ここから先は、イセラの場所だと思った。足元には、誰かがかつて通った痕跡が残っている。灰色の岩へ半ば埋もれた布片。長い年月で色は失われているが、端に赤い刺繍糸が一本だけ残っていた。イセラがしゃがむ。指先で布へ触れようとして、止まった。「知ってるのか」リュゼルが尋ねると、彼女はしばらく答えなかった。「ハルクの外套だ」低い声。「赤い糸を縫ったのは、ミアだった」誰なのか説明はしない。それでも、それが仲間の誰かであることは分かった。イセラは布を拾わなかった。ただ一度だけ指先で端を撫で、立ち上がった。少し先では、折れた矢が骨の間へ刺さっていた。鏃は錆びている。軸の木は腐り、半分ほどしか残っていない。「これは?」リュゼルが訊く。イセラは見ただけで分かったらしい。「セラド」「弓を使ってた?」「ああ」短く答え、矢の横へしゃがむ。「下手だった」「弓兵なのに?」「本人は上手いと思ってた」わずかに口元が動いた。笑みとは言えないほど小さい。それでも、これまでのイセラにはなかった表情だった。「止まってる標的には当たった。動いてる相手には、よく外した」「それは結構まずいな」「だから私が先に脚を切ってた」「なるほど」「本人は『連携だ』って言ってた」今度こそ。イセラの口元がほんの少しだけ緩んだ。すぐに消えた。その後も痕跡は続いた。石の隙間に挟まった獣人用の耳飾り。小さな牙を三本束ねた首飾り。切れた革紐。竜人が身につける爪飾り。どれも朽ちかけている。どれも。イセラには分かる。「ここを通った」彼女が呟く。「間違いない」声が少しずつ固くなっていた。リュゼルの墓碑紋は、谷へ入った時から熱を持ったままだった。耳に聞こえない声が、絶えず頭の奥へ流れている。《暗い》《帰りたい》《誰か》
イセラの視線は、リュゼルの右腕から離れなかった。黒銀色の墓碑紋は、灯石の青白い光を受けても光らない。むしろ周囲の明かりを吸い込むように沈み、皮膚の下へ食い込んでいる。骨の谷を吹き抜ける冷たい風が外套の裾を揺らし、積み上がった無数の骨が微かに擦れ合った。かさり、かさりと乾いた音が続くたび、リュゼルの頭の奥では、まだ消えきらない死者の囁きが薄く重なっていた。イセラはその音とは別の何かを聞いているように、黒豹の耳を後ろへ伏せた。「死人を連れてる」もう一度、低く言う。「一人や二人じゃない」リュゼルは腕を下ろしかけたが、イセラの視線がそれを追ったため、止めた。「連れてるって言われても」「とぼけるな」湾曲刀へ手が伸びる。抜いてはいない。それでも、いつでも抜ける位置だ。イセラは一歩だけ距離を取った。「屍喰らい」その名を聞いた瞬間、ネフィリアの表情が変わった。「何ですって?」声が冷える。イセラは彼女へ視線を移さない。「奈落で昔から言われてる怪物だ」「怪物?」リュゼルが眉を寄せる。「死体を食う。死んだ奴の力を奪う。剣士を食えば剣を使えるようになり、術師を食えば術を盗む。何百人、何千人と食って、最後には自分が誰だったかも分からなくなる」イセラの琥珀色の瞳が、墓碑紋を睨むように細まる。「身体中に黒い墓印が広がって、最後は人間の形すら失うって話だ」骨の谷の空気が、一段冷たくなった気がした。リュゼルは反射的に右腕を見る。紋様は手首から前腕へ伸びている。最初に現れた頃より、明らかに広がっていた。古代魔獣ヴァルディオスを看取った時。その力と記憶を受け継いだ時。さらに死者溜まりへ近づき、無数の声を聞くようになってから、黒銀色は以前より濃くなっている。最後には人間の形すら失う。その言葉だけが、嫌に耳に残った。「違うわ」ネフィリアが前へ出る。彼女の足元から黒紫色の影が薄く広がった。攻撃ではない。ただ、リュゼルとイセラの間へ割り込むように。「彼は奪っていない」イセラがようやくネフィリアを見る。「随分と信じてるんだな」「知っているだけよ」「何を」「彼がどうやってその力を得たのか」イセラの耳が僅かに動く。「死人本人に聞いたのか?」「そうよ」即答だった。今度はイセラが黙った。骨の谷に、遠くで骨片が崩れる音が響く
血に濡れた大剣は、持ち主を失っていた。石床へ深く突き立った刃の脇に、半ば白骨化した巨躯が横たわっている。鎧の隙間から覗く骨格は人間より明らかに大きく、砕けた兜の左右には角らしきものが残っていた。死んでからどれほど経つのか分からない。それなのに刃へ付着した黒い液体だけは乾いておらず、灯石の青白い光を濡れたように返している。だが、リュゼルの目を奪ったのは大剣でも死体でもなかった。その向こうに、途方もなく広い谷があった。岩壁に囲まれた空洞という言葉では足りない。天井は灯石の光が届かないほど高く、左右の壁も闇の奥へ消えている。谷底を埋め尽くしているのは土ではなく、骨だった。獣の肋骨、人間の頭蓋、角を残した魔族の骨格、翼膜だけが黒く乾いた竜種の残骸。それらが幾層にも積み重なり、白灰色の斜面となって遥か奥まで続いている。そして、その骨の海の中央で。一人の女が戦っていた。褐色の肌。顎のあたりで鋭く切り揃えられた黒髪。頭頂から生えた丸みのある黒い耳は、獣のそれだった。腰の後ろから伸びる長い尾が、身体の動きに合わせてしなやかに揺れている。獣人。女は二本の湾曲刀を握っていた。右の刃で襲いかかる骨蜘蛛の前脚を受け流し、左の刃を胴体の下へ滑り込ませる。硬い外殻が擦れ、火花が散った。刃先が奥に隠れた黒い核を正確に穿つと、巨大な蜘蛛の身体が一瞬硬直し、そのまま何百もの骨片へ崩れ落ちる。「速い……」リュゼルは思わず呟いた。実戦経験の差は見ただけで分かった。踏み込む位置。刃の角度。次の敵を見る視線。一つの動作が終わる前に、すでに身体が次へ向かっている。無駄がない。それでいて機械的でもない。足場となる骨が崩れることまで計算し、滑るなら滑る動きのまま刃を振るう。自分より遥かに強い。少なくとも今のリュゼルが、正面から一対一で勝てる相手には見えなかった。それでも。「まずいな」女の左腕から血が流れている。肩口から肘にかけて大きく裂けており、黒い革鎧が赤黒く濡れていた。動くたびに傷口が開き、血が指先を伝って湾曲刀の柄へ落ちている。骨蜘蛛はまだ十を超えていた。死者溜まりの魔力を吸って動いているのか、身体の大部分は獣や人の骨を無造作につなぎ合わせたような形をしている。一体倒しても、周囲の骨山から新たな脚が突き出してくる。「行くぞ」リュゼルが踏み出した。
城を出てから、およそ二時間が過ぎていた。奈落に太陽はなく、空の色で時刻を測ることもできない。それでもリュゼルは歩数と休憩の回数、灯石の燃え方を身体に刻み込むようにして時間を数えていた。最初の一時間ほどは、城の周囲と大きな違いのない岩の通路が続いた。湿った灰色の壁、ところどころに群生する青苔、天井から落ちる冷たい水滴。シュカたちが話していた赤い岩場も通り抜けた。地熱を含んでいるらしく、掌を当てると人肌ほどのぬくもりがあり、そこだけはわずかに硫黄に似た匂いが漂っていた。ネフィリアは何も言わず歩いている。歩幅は一定だった。少なくとも、そう見えるようにしていた。リュゼルは前を向いたまま、背後から聞こえる足音へ意識を向けた。右、左。右、左。革靴が石を踏む音は乱れていない。ただ、最初より一歩ごとの間隔がわずかに長くなっている。呼吸も静かだが、時折鼻から深く息を吸っていた。まだ休ませるほどではない。そう判断し、リュゼルは自然なふりをして歩く速度を少し落とした。すぐ後ろから声が飛ぶ。「私に合わせているの?」「道が悪くなっただけだ」「今までと変わらないけれど」「石が滑る」「乾いているわ」「細かい砂がある」「ないわね」間を置いてから、リュゼルは振り返った。「元気そうだな」ネフィリアは紫紺の瞳を細めた。「喧嘩を売っているのなら買うわよ」「元気ならいい」それだけ言って前へ向き直る。背後で小さく息を吐く音がした。怒ったのか、呆れたのかは分からない。ただ、歩調はそのままになった。やがて通路の幅が広がり始めた。最初に変化へ気づいたのは匂いだった。湿った土とも、腐肉とも違う。乾いた骨を砕いた時に漂う、わずかに粉っぽい匂い。リュゼルは足を止める。灯石を高く掲げた。青白い光が壁面を滑る。そこから何かが突き出していた。白い。細長い。「骨……」近づく。岩壁へ半ば埋もれるように、人間ほどの長さを持つ骨が一本突き出している。大腿骨に見える。だが、太い。人間のものより一回り大きい。さらに灯石を横へ向ける。一本だけではなかった。壁のあちこち。石の割れ目。床。天井近く。数えきれない骨が、岩と一体化するように埋まっている。ネフィリアが隣へ並んだ。「魔物だけではないわね」「ああ」すぐ近くの壁には、明らかに人間の頭蓋骨が
探索に持ち出す道具を長卓へ並べ終えた頃には、広間の床へ淡い紫の光が落ちていた。天井に埋め込まれた王域の結晶灯は時間によって明滅するらしく、眠りから覚めてしばらくすると、夜を模した青黒い色から柔らかな薄紫へ変わる。地上の朝日とはまるで違う。それでも、いつまでも同じ暗闇だった奈落に目安となる光があるだけで、人の身体は不思議と時間を思い出すらしい。子どもたちは食事を終え、水路で顔を洗い、三匹の月角兎は広間の隅に積まれた青苔へ鼻先を埋めていた。リュゼルは長卓の上に水袋を二つ置き、縄を巻き直した。保存食、火口箱、薬草、包帯、解体用の小刀、革手袋、予備の灯石。昨日作った地図は湿気を避けるため革筒に収め、黒鎖短剣は腰へ差してある。死者溜まりそのものへ踏み込むつもりはないが、何が起こるか分からない以上、持てるものは持っていくべきだった。問題は、誰が行くかだった。「俺一人で行く」革紐を締めながら口にした途端、向かい側から冷たい声が飛んだ。「却下よ」リュゼルは顔を上げた。ネフィリアは長卓の反対側に立ち、両腕を組んでいる。封印が完全に解けた今、手首にも足首にも黒い枷はない。数百年にわたって彼女を柱へつないでいた六本の鎖も消え、白い肌には薄い傷痕だけが残っている。黒紫色の簡素な衣服は王域が生み出したものらしく、動きやすい細身の長衣に膝下までの革靴という姿だったが、その立ち方には拘束されていた頃とは違う静かな威厳が戻っていた。「まだ何も説明してない」「説明する前から分かるもの。あなたが一人で死者溜まりへ行こうとしているのでしょう」「中には入らない。周囲を見るだけだ」「昨日も同じようなことを言っていたわね」「実際、そのつもりだ」「あなたの『そのつもり』ほど信用できないものを、私は今のところ知らないわ」子どもたちが朝食の後片づけをしながら、二人のやり取りへ視線を向け始めた。シュカに至っては、水で濡れた皿を布で拭く手を完全に止めている。リュゼルは子どもたちの前で言い争うつもりなどなかったが、ネフィリアの表情を見る限り、こちらが折れなければ静かに終わる可能性は低そうだった。「城を空けるわけにいかないだろ」「なぜ?」「なぜって」「王域の結界は私が外へ出ても消えないわ」「でも、城から離れるほどあんたの魔力は弱くなる」ネフィリアの眉がほんのわずかに上がる。事実だっ
水音がするだけで、かつての地下神殿とは別の場所に思えた。《王域形成》が発動する以前、祭室の奥にあった水場は、岩の裂け目から濁った雫が落ちるだけの頼りないものだった。革袋を満たすにも長い時間がかかり、底には細かな砂が沈んだ。今では白灰色の石壁に沿って細い水路が走り、透き通った水が絶えず流れている。指を浸せば冷たく、鼻を近づけても腐臭も鉱物臭もない。崩れかけていた天井は継ぎ目のない黒銀の梁に支えられ、亀裂の奥から魔物が這い込んでくる気配も消えていた。城、とネフィリアは呼んだ。リュゼルには、まだその言葉が自分たちの居場所を指しているという実感がない。王座を思わせる高台があり、広間があり、寝室として使える小部屋がいくつも生まれた。外周には淡い紫色の膜のような結界が張られ、夜ごと聞こえていた獣の唸り声も遠ざかった。石床には冷気を和らげる熱が通り、裸足で歩いても以前ほど足裏が冷えない。それでも、目の前の木皿に載っている肉は増えなかった。リュゼルは切り分けた岩鎧猪の燻製肉を見つめながら、残量を頭の中でもう一度数えた。闇爪狼の干し肉が二袋半。岩鎧猪が一頭分には少し足りない程度。地下茸は食用確認済みのものが十数本。灰牙傭兵団が残した硬い乾燥パンは、子どもたちが無理なく食べられるよう水で戻せば三日分ほどになる。月角兎のために集めた青苔と柔らかな根草も、この周辺では十分な量が採れない。人が七人。月角兎が三匹。満腹を求めなければ、五日。さらに切り詰めれば七日。しかし、切り詰めた先に何があるのか。リュゼルはそこで計算を止めた。「リュゼル」呼ばれて顔を上げる。広間の反対側に座っていたネフィリアが、紫紺の瞳で彼の手元を見ていた。知らないうちに、肉を自分の皿から除けていた。一切れ。二切れ。脇へ寄せてある。「食べて」「あとで食う」「その言い方をする時は、食べないつもりでしょう」「食料の残りを見てただけだ」「それと、あなたの食事を減らすことに何の関係があるのかしら」言葉に詰まった。その間に、向かい側で衣擦れの小さな音がした。一番幼い少女が、自分の皿から肉をつまんでいる。五つか六つほどの年齢にしか見えない小さな手で、燻製肉を半分に裂こうとしていた。固い肉は簡単には千切れず、細い指先が赤くなる。隣に座るシュカの皿へ移そうとしているのだと気づき、リ