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第6話 王女は跪かない

Auteur: なつめ
last update Date de publication: 2026-07-27 08:38:28

 幾重もの牙が、頭上の闇を塞いだ。

 避ける時間はない。

 リュゼルは小刀を捨て、右腕を掲げた。

 意識の奥に沈む石板へ触れる。

 竜哭王ヴァルディオス。

 その名を呼んだ途端、焼けた右腕の墓碑紋から黒金の炎が噴き上がった。

 身体のすべてを渡してはならない。

 黒い城を守った巨大な骨格も、空を覆った翼も必要ない。欲しいのは、迫る牙を一度だけ防ぐための硬さ。

「右腕だけだ」

 自分へ言い聞かせるように叫ぶ。

「ここから先へは、入ってくるな!」

 指先から肘、肩の寸前まで、黒い鱗が次々と皮膚を覆った。

 墓守蜈蚣の牙が腕へ激突する。

 発現した《黒竜鱗》と白い牙の間から火花が散った。衝撃が肩を抜け、胸の奥まで突き抜ける。継ぎ合わせられた骨が悲鳴を上げ、リュゼルの両脚が石床へ沈んだ。

「ぐ、ぅ……っ!」

 墓守蜈蚣の重みが右腕へ圧し掛かる。

 肘が折れそうに曲がった。

 それでも鱗は砕けない。

 ヴァルディオスの怒りが、右腕から流れ込んできた。敵を焼き尽くせと黒い炎が心臓を叩く。竜へ変われ。翼を広げろ。爪で引き裂けと、死者の記憶が全身を求める。

「俺は……俺のままで、使う」

 リュゼルは奥歯を噛み締めた。

 炎も翼も呼ばない。

 右腕を覆う鱗だけを意識し、それ以外の記憶へ境を引く。

 黒い鱗の広がりが肩で止まった。

 墓守蜈蚣の牙が横へ滑る。

 リュゼルは押し潰される寸前に身を捻り、巨体の下から転がり出た。牙が床を抉り、黒い石片が雨のように降る。

「あなた……」

 祭壇から、少女の掠れた声が届いた。

 紫紺の瞳が僅かに見開かれている。

「一度言われただけで、力の範囲を抑えたの?」

「できるとは、思わなかった」

「それで実行する人間がどこにいるのよ」

「ここにいたらしい」

 言葉を返しながら、右腕を振る。

 骨は折れていない。だが肩の関節がずれ、腕全体が痺れていた。黒竜鱗を留めているだけでも墓碑紋が焼け、体温を奪われていく。

 長くは保たない。

 墓守蜈蚣が頭を持ち上げた。

 牙の先には、鱗で削られた浅い傷が一本ついている。致命傷には程遠い。むしろ痛みで怒らせただけだった。

 巨体が身震いし、何十本もの節足が一斉に床を叩いた。

 リュゼルは落とした小刀を拾い、墓守蜈蚣の横を駆け抜けた。

 右脚へ《瞬脚》を一瞬だけ通す。

 銀灰色の光が弾け、毒液が背後へ落ちた。

 すれ違いざま、胴を覆う骨の外殻へ小刀を突き立てる。

 甲高い音が鳴った。

 刃先が欠け、手首へ痺れが走る。外殻には白い筋すら残っていない。

「小刀では傷つきません!」

 少女が叫ぶ。

「今、分かった」

「試す前に分かりなさい!」

 墓守蜈蚣の尾が横薙ぎに迫る。

 リュゼルは折れた列柱の陰へ飛び込んだ。黒い棘が柱の表面を削り、頭上から岩片が崩れ落ちる。

 正面から倒すことはできない。

 黒竜の炎を使えば、外殻ごと焼けるかもしれない。だが今の身体で呼び出せば、魔物が死ぬより先に自分の内臓が焼ける。

 《瞬脚》も続けて使えない。

 小刀は役に立たない。

 リュゼルは息を整えながら、神殿全体へ視線を走らせた。

 勇者一行にいた頃、彼が戦いへ加わることは許されなかった。

 だが、見ていなかったわけではない。

 魔物がどちらの脚から踏み込むか。

 地形のどこに逃げ道があるか。

 崩れやすい岩と、荷重に耐える柱の違い。

 誰もが剣と魔法だけを見ていた間、リュゼルは戦場のすべてを覚えていた。

 神殿の天井から垂れる黒鎖のうち、三本が大きく揺れている。

 墓守蜈蚣が岩扉を破った時の振動で、鎖を支える天井の金具が緩んだらしい。一本は折れかけた列柱へ絡み、もう一本は祭壇の外周へ弧を描いて垂れている。

 列柱の根元にも、尾を打ちつけられた亀裂が走っていた。

 魔物を殺す必要はない。

 ここから動けなくできればいい。

 リュゼルは祭壇の少女を見た。

 少女も、彼の視線を追って天井の鎖を見上げる。

 二人の目が合った。

「あの鎖を動かせるか」

「私を拘束するもの以外なら、僅かに」

「十分だ」

「何をするつもり?」

 墓守蜈蚣が柱の陰へ顎を突き入れた。

 リュゼルは横へ転がり、牙を避ける。柱が揺れ、根元の亀裂がさらに広がった。

「あいつを祭壇の右へ誘う」

「それだけでは分かりません」

「垂れている二本を、俺が柱を蹴った時に引いてくれ」

 少女の視線が、鎖、列柱、墓守蜈蚣の長い胴を順に辿る。

 僅かな間のあと、その顎が引かれた。

「三息しか動かせません」

「一息あればいい」

「失敗すれば?」

「今度こそ食われる」

「平然と言わないで」

 叱責とは裏腹に、少女の声はもう迷っていなかった。

 リュゼルは列柱の陰から飛び出した。

 墓守蜈蚣の白い目が彼を追う。

 大顎が開き、濁った毒液が喉の奥へ集まった。

「右へ!」

 少女が叫ぶより早く、リュゼルは右脚へ力を通した。

 《瞬脚》。

 ほんの一歩だけ。

 身体が銀灰色の残光を引き、毒液の軌道から外れる。白煙を上げる液体が床へ広がり、靴底の端を溶かした。

 墓守蜈蚣が方向を変える。

 長い胴が祭壇の周囲を半周し、黒鎖の真下へ入り込んだ。

 リュゼルは速度を落とした。

 追いつかせない程度に走り、しかし魔物が別の獲物へ興味を移さない距離を保つ。

 祭壇の外側で、月角兎の幼体たちが隠れている。

 一匹の鳴き声でも聞かれれば、墓守蜈蚣はそちらへ向かうかもしれない。

「こっちだ!」

 欠けた小刀を、外殻の傷へ投げつけた。

 刃は弾かれたが、怒りを向けさせるには十分だった。

 墓守蜈蚣が咆哮し、前方の節足で床を蹴る。

 リュゼルは折れかけた列柱へ向かって走った。

「まだ!」

 少女の両手が、枷の中で持ち上がる。

 白い指先から黒紫色の魔力が伸び、天井から垂れた鎖へ絡みついた。少女の翼が震え、付け根の鉤爪から血が滲む。

 黒鎖が軋んだ。

 墓守蜈蚣の頭部が、リュゼルの背中へ迫る。

 あと五歩。

 四歩。

 三歩。

 牙が外套の裾を噛み千切った。

「今だ!」

 リュゼルは右脚へ残っている力をすべて集めた。

 月角兎の恐怖が、子どもたちへ戻ろうとした最後の焦りが、胸を締めつける。

「借りる。けれど、行き先は俺が決める」

 銀灰色の光とともに、亀裂の入った列柱を蹴った。

 足裏から骨の砕けるような痛みが突き抜ける。

 列柱が大きく傾いた。

 同時に、少女が両手を引く。

「落ちなさい!」

 黒紫色の魔力が弾けた。

 天井の金具が外れ、二本の黒鎖が凄まじい勢いで落下する。傾いた列柱が墓守蜈蚣の胴へ倒れ込み、その巨体を床へ叩きつけた。

 続いて鎖が何重にも胴へ巻きつく。

 墓守蜈蚣が暴れ、列柱を持ち上げようと身を捩る。黒い節足が床へ溝を刻み、顎から毒液を撒き散らした。

 少女が最後の力で鎖を引く。

 先端の金具が床の亀裂へ食い込み、墓守蜈蚣の胴を黒い石へ縫い止めた。

 完全には倒せていない。

 外殻にも致命的な傷はない。

 それでも長い胴は列柱と鎖に拘束され、頭部を僅かに持ち上げることしかできなかった。

 墓守蜈蚣の顎が何度も床を噛み、石片と毒液を撒き散らす。巻きついた鎖が引き絞られるたび、骨の外殻に白い亀裂が増えた。それでも魔物は死なず、黒い節足を狂ったように動かしている。一本でも鎖が外れれば、再び立ち上がるだろう。

 リュゼルは荒い呼吸の合間に、祭壇の窪みへ視線を向けた。革布の端から小さな耳が三つ覗き、すぐに引っ込む。鳴き声はない。怯えながらも、ここから出るなという言葉を守っている。その姿を確かめて初めて、詰めていた息を吐いた。

「できた……」

 リュゼルは列柱の残骸へ片手をついた。

 右脚から力が抜け、膝が震えている。《瞬脚》を使った筋肉は熱を持ち、皮膚の下で新たな出血が広がっていた。

 右腕の黒竜鱗も、火の粉となって墓碑紋へ戻っていく。

「驚いたわ」

 少女の声が聞こえた。

 振り向くと、彼女は祭壇の上で荒い息をついていた。

「人間は、もっと言葉を重ねなければ互いの意図を理解できない生き物だと思っていた」

「俺も、あんたが話を聞くとは思わなかった」

「聞いたのではありません。最も生存率が高い手段を選んだだけです」

「それを、話を聞いたと言うんだ」

 少女が何かを返そうと唇を開いた。

 その時だった。

 高く細い音が、神殿へ響いた。

 硝子へ亀裂が入るような音。

 少女の左手首を拘束する黒鎖に、白い筋が走っている。

 墓守蜈蚣を縛るため神殿の鎖を動かした反動が、彼女自身の拘束へ伝わったのだ。

「動くな!」

 少女が自分へ命じるように叫んだ。

 だが亀裂は止まらない。

 黒鎖の表面を這い、枷の内側まで達する。

 亀裂から、黒い霧が漏れ出した。

 霧は生き物のように少女の手首へまとわりつき、白い肌の下へ染み込んでいく。細い血管が黒く浮かび、その色が腕から肩へ広がった。

 少女の身体が硬直する。

 翼が大きく震え、鎖が一斉に鳴った。

「何が起きている」

「来ないで」

 声は冷静だった。

 しかし枷へ添えられた指先が、隠しようもなく震えている。

「拘束が緩んだのではないのか」

「これは封印であると同時に、呪いを留める器です。壊れ方を誤れば、中身が私へ戻る」

 少女は背筋を伸ばしたまま、紫紺の瞳を細めた。

 苦痛に耐えていることを悟らせまいとしている。

 けれど呼吸は短く途切れ、白い歯が唇の内側を噛んでいた。

 やがて口元から、赤い血が一筋落ちる。

 黒いドレスへ新たな染みをつくった。

 リュゼルは祭壇へ向かった。

「来るな。あなたまで呪いを受ける」

「そのままなら、あんたが死ぬ」

「私は死なない」

 少女の唇が、歪な笑みをつくった。

「死ぬことすら許されていない」

 黒い霧が首元まで上り、黒環の下にある痣へ吸い込まれていく。

 祭壇を囲んでいた結界は、鎖の亀裂に合わせて明滅していた。完全に消えたわけではない。近づくたびに肌が焼け、胸の奥から命を引き抜かれる感覚が強くなる。

 リュゼルは黒竜鱗を右手だけへ戻した。

 ヴァルディオスの怒りが蘇る。

 少女へ届かなかった爪。

 閉じる門。

 炎の向こうへ消えた銀髪。

「これは、あんたの願いでもあるんだろう」

 墓碑紋へ言い聞かせる。

「でも、助け方は俺に選ばせてくれ」

 右腕を結界へ差し入れた。

 黒竜鱗の表面が焼け、黒い煙が上がる。鱗の隙間から皮膚へ呪いが刺さり、全身の血が逆流するような痛みが走った。

 それでも足を止めない。

 祭壇まで、あと数歩。

「どうして……」

 少女の声が掠れた。

「どうして、人間がそこまでするの」

「人間だから助けるんじゃない」

 リュゼルは息を吐きながら答えた。

「あんたが、俺を助けたからだ」

 少女は目を伏せた。

 長い銀髪が頬へ落ち、その表情を隠す。

「……名も知らない者に、最期を見られるのは嫌ね」

 小さな呟きだった。

 リュゼルは足を止めかけた。

 少女がゆっくり顔を上げる。

 紫紺の瞳には苦痛が滲んでいた。それでも、王座へ座る者の誇りだけは失われていない。

「ネフィリア」

 鎖の音の中で、その名だけが鮮明に届いた。

「ネフィリア・エル=ヴァルグレイ。深淵王家最後の王女」

 真名を告げた瞬間、神殿の黒い水面へ紫紺の波紋が広がった。

 列柱に刻まれた古い紋章が、一つずつ淡く光る。地下神殿そのものが、失われた主の名へ応えているようだった。

 ネフィリアの背後にある崩れた王像から、黒い砂が落ちた。伏せられていた石像の顔が僅かに持ち上がり、閉じた瞼の間へ紫の光が宿る。だがその光も長くは続かず、鎖から漏れる霧に触れた途端、再び沈黙した。

「魔族の王族が人間へ真名を明かすことは、心臓の在処を教えるに等しい。名を用いれば、契約にも呪詛にも私を縛れる」

「なら、なぜ教えた」

「名も知らない者に看取られるのだけは嫌だった」

 ネフィリアは唇の血を拭おうとした。

 だが手首の鎖が鳴り、指先は口元まで届かなかった。

 その短い距離が、リュゼルにはひどく遠く見えた。

 彼はネフィリアの前へ膝をついた。

 鎖から漏れる黒い霧が、頬を撫でる。冷たいのに、皮膚の内側では火傷のような痛みが広がった。

 ネフィリアが、紫紺の瞳を細める。

「私に従うつもり?」

「違う」

 リュゼルは片膝をついたまま、焼けた右手を持ち上げた。

「手を届かせるために屈んだだけだ」

 祭壇の上で拘束された彼女と、同じ高さになる。

 見上げるのでも、見下ろすのでもなく、正面から紫紺の瞳を見つめた。

「俺は誰かの前で跪くのはやめる」

 勇者の外套を追い、命令を待ち、役に立つことで居場所を許されようとした日々。

 そのすべてを、奈落へ落ちる途中で失った。

 もう、誰かに選ばれるために自分を差し出すつもりはない。

「だから、あんたも跪かなくていい」

 ネフィリアが息を呑んだ。

 冷たく澄んだ紫紺の瞳が、初めて行き場を失うように揺れる。

 リュゼルは右手を伸ばした。

 黒竜鱗に覆われた指先が、亀裂の入った黒鎖へ触れる。

 轟音とともに、呪いが弾けた。

 黒い光がリュゼルの腕を駆け上がり、紫紺の光がネフィリアの鎖から溢れ出す。

 二つの力は互いを拒むように激しく衝突し、次の瞬間、絡み合った。

 黒銀色の墓碑紋と、ネフィリアの胸元に浮かぶ王家の紋章が同時に燃え上がる。

 二人の間を、逃げ道のない呪いが走った。

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